機械が象徴するもの

 10年ほど前から機械化病が知られるようになった。きっかけは、事故死した女性の心臓にネジがついていたこと。同じ様な事件が頻発し、猟奇殺人かとワイドショーでもてはやされたが、時期にそれが病気であることが分かる。自覚症状もない、少し調べたくらいでは分からない、機能的には全く変わらないし、病気自体は伝染するわけでもない。いつの間にか、中身だけが機械に入れ替わっているのだ。
 この作品は、そんな世界で生きる人たちの、機械化病にまつわるオムニバス・ストーリーとなっている。

 機械化病というのは何の暗喩なのだろうか?はじめは、人と人は表面的には分かりあえても、その内側までは完全に理解することはできない、というような精神的なコミュニケーションのことかと思った。確かにそういう面もあるかもしれない。しかし、特に最後のエピソードを読むと、それ以外のことの方が大きいのではないかと感じた。
 いまとむかしでは、表面的には何も変わっていない。社会インフラだって整備されているし、食料も供給されている。むしろ良くなったくらいだ。でも、知らず知らずのうちに失っているものはないだろうか。そんな問いかけがある気がする。

 機械というのは論理性の象徴だろう。しかし、社会には論理だけで割り切れるものばかりではない。論理を超えた倫理とか、人情とか、義理とか、いろいろなもので社会は成り立っている。それらの機能は論理や金銭で交換できるかもしれない。でも、それをしてしまっても大丈夫なのか。そういうことを言っている気がした。
 だが、中身が入れ替われば、入れ替わったなりのやり方が、ある程度の期間の思考錯誤を経た上、で、生み出されていくのだろう。それが新しい世代、新しい社会というものだという考え方もあるかもしれない。

 タイトルは言葉遊びなのだろうか。少なくとも内容的に説明はなかったように思う。

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秋田禎信作品の書評