数字にすると見えてくるもの、数字にすると隠れてしまうもの

 政治や経済の世界では、しばしば、人間を数字として扱う。出生率に始まって、就学率、1人当たりGDP、失業率に平均寿命、戦争が始まれば損耗率なんて数字でも表される。これは政治や経済が、「なんとな〜く、しあわせ」という感覚的なものではなく、「○○政策の方が+10だけ余分に幸せ」という様に、明確に比較・評価しなければならない性質のものだからだろう。
 今から30年以上前に、『人命は地球より重い』と述べてハイジャック犯の要求に屈した政府があったが、これも、要求を撥ね付けた時のデメリットとのんだ時のデメリットを比較・検討した上で出した結論だったのだと思う。だから、必ずしも人間を数字として見ることが悪いことだとは思わない。

 しかし、この様な考え方も、行き過ぎると何かおかしなことになってくる。「このまま戦争が続けばもっとたくさんの人が死ぬから」と言って原子爆弾を投下したり、「いま生きている人が安楽に暮らすために借金をして、将来の人にその返済を押し付ける」なんていう選択もその例だろう。前者は将来死ぬかもしれない人とその時確実に死ぬ人を比較しているし、後者はいまの幸せと将来の幸せを比較している。その時点では得が大きい方を選択しているのかも知れないが、原爆投下は後遺症と禍根を残したし、借金はあとで利子が膨らんで大変なことになるだろう。
 だから、先の先まで考えると、どちらが得なのかはよく分からない。しかし、悩んでばかりで行動しないのも意味がないので、神ならざる人間の身なれば、可能な限り判断材料を集めて、自分が最善と思う道を選択するしかないのも事実だ。

 イルは自分の方が多くの人間を救えるから、と言ってサクラをいじめる。しかし、サクラの考え方にだって一理ないわけではない。自ら選択してシティか何かのために命を賭けることと、シティ存続のためだけに生み出される殺されることの間には、選択の自由度という意味で雲泥の差がある。だから、その選択の余地を与えようとするサクラを責めることはできない。
 第一、犠牲の羊として殺した魔法士を生かすことによって、将来もっと多くの人間が救われる可能性だってないわけじゃないんだからね。

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三枝零一作品の書評