平和の礎となるものを直視せよ

 9・11後の先進国では、テロへの抑止・防止のために、全ての人・物にトレーサビリティが要求されるようになった。カウンターテロのための暗殺という禁じ手は秘密裏に解禁され、世界の平和を守るという名目で行使される。アメリカ情報軍大尉クラヴィス・シェパードは、途上国で自国民を虐殺する大臣の暗殺命令を受け、現地へ向かう。だが、同時暗殺対象であるアメリカ人ジョン・ポールは既に去った後だった。
 訪れる国々で必ず虐殺が起きるという経歴を持つジョン・ポール。幾度もの暗殺命令にも拘らず、彼がターゲットスコープに入ることはない。かすかな痕跡を辿り、クラヴィスプラハを訪れる。そこから明らかにされる、人類に組み込まれた虐殺器官の正体とは?

 クラヴィスは文学的素養にあふれた軍人で、会話の教養レベルが高い。物語の骨格に関連するためもあるが、特に、プラハで出会うジョンの昔の女で言語学者のルツィア・シュクロウプとの会話は面白い。
 作品中では多くの種類の死が描かれているが、病死の様な意図せざる死は基本的にない。全ての死は、誰かが何かの目的を持って引き起こした結果に伴って生じる死だ。この様に死の描写が多いのだけれど、しかし、本当の物語の核のひとつは、"わたし"という主体に括られる範囲の、人による違いではないかと思う。
 自分たちに何らかの危害が加えられるかもしれない事象があるとする。そのときに、どこまでを保護しようと思うか。自分だけという人もいれば、家族までという人もいる。友人や知人までという人もいれば、たまたま近くにいる人、見ず知らずの人も全てという人もいるかもしれない。そのときに守ろうと思う範囲、そしてそれ以外はどうなっても良いと(無意識に)思う範囲が、ここでいう"わたし"という主体に括られるそれだ。

 クラヴィス、同僚のウィリアム、アメリカ軍上層部、ジョン、ルツィアと、それぞれ守ろうと思う範囲が全く異なる。そこにあるのは、範囲内における寛容である。だから、野生のクジラやイルカは保護の対象なのに、類似する人工育成のそれらは利用の対象にしかならない。自分の子供は世の中のきたないものに触れないようにしようとするけれど、銃を持って立ち向かってくる他国の子供たちは容赦なく撃ち殺す。
 この範囲の他者と重なる部分に平和が生まれ、境界線上に争いが生まれる。

 本書中に散りばめられた様々な専門用語は、ややもすると生きた言葉ではない、単なる知識としての言葉になってしまいがちだが、その辺はギリギリで回避されている気がする。
 また、他作品のパロディなども散りばめられていて、特に物語に入り込むまでの閾値を下げる役割を果たしてくれている気がする。

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伊藤計劃作品の書評